【日本美術の思想家】岡倉天心の名言に学ぶ。逆境こそ自分の方向性が定まるとき

人生の逆境

「岡倉天心(おかくらてんしん)」。私は日本史で勉強した記憶があります。

大学受験で必要な名前で、名前だけは覚えておくべきというふわっとした知識になりがちです。

しかし、岡倉天心の生涯に学ぶことは大きい。この名言は、確かにそうだなあと感じさせられました。

自分で偉大だとうぬぼれているものが実はちっぽけなものにすぎないことがわからない者は、ちっぽけと軽んじている他人のものが実は偉大なものであることを見過ごしがちである

世間で言われる価値基準ではなく、「自分自身の価値基準を持つ大切さ」がにじみ出ているように感じます。

天心は、裕福な貿易商の家から、現在の東大へ進学したエリート。彼の人生を調べてみると、「逆境で自分のやるべきことが見えてくる」のを知りました。

どんな状況でも、最後は本人の意思。岡倉天心の筋の通った行動に惹かれました。

岡倉天心は、日本の美術・文化を愛した人

近代社会で、急速に西洋化の影響を受ける日本。そんな中、日本の良さをアピールしたのが岡倉天心です。

wikipediaより

https://ja.wikipedia.org/wiki/岡倉天心

岡倉天心の人生観

明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。

日本文化の価値を見出し、英文で「The Book of Tea」という茶道の歴史や思想、日本文化の素晴らしさを海外へ紹介する本を書いています。

また、後年は後進の育成にも尽力。

茨城県天心記念五浦美術館より

東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。

〜中略〜

横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。

歴史を表面的に知るだけでも、日本の芸術と文化に、並々ならぬ熱量を感じます。

ところが、意外なことにもともとは貿易商人の生まれで、若い頃は彼の後年ほどには世間に芸術や文化についての才能を出していないようです。

人生のピンチ。そのとき「自分の感覚」を信じた

行き場が無い時、どうしたらいいか分からない時、自分の中に基準があれば乗り越えるきっかけとなります。岡倉天心のエピソードが面白い。

ART LOVERより

天心が苦労して書き上げた大学卒業時の論文は、貿易関係のものだったのではないかと伝えられています。

しかし、なんとこの論文、夫婦喧嘩の挙句、奥さんに焼き捨ててしまわれます。(当時奥さんは妊娠中で、いささか不安定だったともいわれていますが…)論文の締め切りまで2週間。

慌てて書き直したのが美術や文化に関する論文でした。

貿易関係の論文を書いていたのに、奥さんに焼き捨てられる!提出期限2週間前!めちゃめちゃピンチですね。

普通の感覚だったら、どうするだろう。「貿易の論文をできるだけ思い出そう!」ってなりそうです。

でも、慌てて書き直したのが「美術や文化」について。ピンチになるとその人の本性が出てくるのかもしれません。「なんとかしないと!」と思って「自分が乗り越えられるのは、貿易じゃなく美術だ!」っていう気持ちになったんですね。

その後、27歳の若さで東京美術学校の校長に就任。

何歳でも、基準は周りではなく「自分」

自分を信じて生きる

せっかく校長に就任した学校でも逆境に襲われる。採用した人に逆恨みされて、美術学校を辞任することになります。

ホンシェルジュ

岡倉天心にまつわる逸話6つ!より

岡倉の人生の転機は、37歳の時に訪れます。東京美術学校の教授に、福地復一という人物を採用したのがその始まりでした。

福地は当初、岡倉に厚遇されていたことから「勘違い」をしてしまい、旧来の教授陣に傲慢な態度をとるようになっていました。そして次第に岡倉からも疎んじられると、数名で派閥を作り、彼を学校から追い出そうと画策します。

この騒動は、岡倉が書いたとされる罵詈雑言の怪文書が新聞社などに送りつけられる、という事態にまで発生しました。

このような状況で、岡倉は東京美術学校の校長を辞任します。

学校長時代、採用した人物がハズレ。裏切られます。37歳、ピンチが訪れます。

岡倉天心自身は辞める必要は無かったのですが、いざこざの中にいるよりも、自分の気持ちに合った方向性を選んでいく。

大政治家の西園寺公望は「辞める必要はまったくない」と言って慰留を求めました。

しかし岡倉は、このようなつまらぬ争いに関わるよりも、ネクストステージを選びます。彼は東京美術学校を辞して、芸術の大学院を作るという構想のもと、「日本美術院」を創設。

もしかしたら貿易商に生まれた岡倉天心にとっては、貿易に関することや政治に関することは得意だったかもしれません。

しかし、自分がもっと純粋に向き合える芸術と文化の方向に進んでいった。自分を活かせるのはこっちだという思いがあったんだと思います。

37歳での校長辞任という挫折は、実は岡倉を胸躍る新たな挑戦へと送り出した事件ということもできるでしょう。

その後50歳で没するまで、岡倉天心は芸術の発展と紹介に打ち込み続けます。

生涯、自分と向き合ったからこその名言「己れの持つものに、他に超えたる優秀のものあるを知れ」

自分と向き合ったからこその名言

教育者としての岡倉天心は、名言をたくさん残しています。芸術家としての感覚を教えるのに、自分を持って優秀なものを学べと説いている。

ホンシェルジュ

岡倉天心にまつわる逸話6つ!より

「画家たる前に、美術家たる前に、まず日本人たれ、東洋人たれ、己れの持つものに、他に超えたる優秀のものあるを知れ……(中略)……偏狭に堕すな、後れるな、成型を追うなかれ……」

というものがあります。

まず、アジア人として、日本人である自分を持ち、そのうえで優秀なものを学べという意味です。

「日本人である自分を持って、優秀なものを学べ」。

この内容は、私には天心自身が「周りに流されない自分を持て」と言っているように感じます。

まとめ:基準は自分・インスピレーション。自分を持った天心だからこその名言

時代が変わっても世間に縛られるか、自分に従うかが分かれ目だと思います。

自分を曲げて、違和感のある方向に進むといつかムリが生じる。自分に対してウソを重ねてしまうからかもしれません。

岡倉天心のように才能豊かであれば、やりたいようにできるのかもしれませんが、方向転換をした当時の天心にとってはどうなるか分からない未知の冒険だったに違いない。

そんな自分を信じる意思と行動力の伴った天心だからこそ、その発言に強さを感じるんだと思います。できるだけ自分の気持ちに正直に生きていきたいと感じられた天心のエピソードでした。

以上となります。最後まで読んでいただきありがとうございます。